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#003 2005_12月号













(1)ジョージ・ハリスン&フレンズ
/コンサート・フォー・バングラデシュ
ソニーMHCP-896-7
ボックス仕様
2005年11月発売
(2) ジェシ・デイヴィス
/ジェシ・デイヴィスの世界
ワーナー・ミュージック
WPCR-18P2-2921
1998年3月発売<廃盤>
(3)ジェシ・デイヴィス
/ウルル
ワーナー・ミュージック
WPCR-11463
紙ジャケット限定盤
2003年2月発売<廃盤>
(4)ロジャー・ティリソン
/ロジャ-・ティリソンズ・アルバム
east west AMCY-2606
1998年4月発売<廃盤>
(5) ロジャー・ティリソン
/マンブル・ジャンブル
ドリームズヴィル
YDCD-0094
2003年4月発売


 『バングラデシュ・コンサート』(1)のリマスター盤CD及びDVDが出たので、同コンサートに出演したジェシ・エド・デイヴィスのことを少し書いてみようと思う。
 今から26年前の冬、私は、麻田浩氏とカメラマンの桑本正士氏と一緒にロス・アンジェルスに滞在していた。当時は、LAにトムズ・キャビン支局があって、ボブ・キンメル(元ストーンポニーズ/フローティング・ハウス・バンド!)が麻田さんを助けて、海外アーティストの日本ツアーのブッキングなどを担当していた。特に取材のための渡米ではなかったが、最初からこのひとだけには会いたいと思っていたミュージシャンが何人かいた。その中のひとりが、ジェシ・デイヴィスだ。ボブ・キンメルに頼んで、本人と連絡を取ってもらい、彼が指定してきたLAの寿司バーで会うことになった。本当は、彼の所有するギターなども見たかったのだが、ひとに預けていて、手許にない(???)ということだった。この時のインタヴューは、かつて、レコード・コレクターズ誌やジェシ・デイヴィスのCD解説に載せたことがあるが、ここにジョージ・ハリソンとの出会いとバングラデシュ・コンサートのことを語った部分を紹介しておく。
「ジョージに初めて会ったのは、1968年だ。ジョン・レノンに会ったのもその時だ。タジ・マハールと一緒にイギリスへ映画を撮影に行ったんだ。ローリング・ストーンズの『ロックンロール・サーカス』という長編映画だけど、未だに公開されてない。ジェスロ・タル、ザ・フー、タジ・マハール、ローリング・ストーンズ、プラスティック・オノ・バンドをフィーチャーした作品だ。その時、ジョン・レノンのバンドには、ドラムにミッチ・ミッチェル、ベースにキース・リチャーズが入って、ジョンがギターを弾き、リード・ギターは、エリック・クラプトンだった。俺がエリック・クラプトンに初めて会ったのもその時だ。ジョージ・ハリソンが初日の撮影にやってきたんだ。だから、ジョージとジョンに会ったのは、68年の同じ日だな。その後もジョージとは仲良くしてもらって、セカンド・アルバム(3)を作るときに曲を書いてくれないかと頼んでみたんだ。ちょうど俺がタジ・マハールのバンドを辞めて、訴訟中だった。その後、お互い納得いく形で和解したけどね。「俺もビートルズと訣別したばかりで訴訟中だ。同じ立場だね」なんてことをジョージが言って、「スー・ミー・スー・ユー・ブルース」をくれたのさ。それで俺は、その曲を吹き込んだ。その後、間もなく、バングラデシュ・コンサートに出ないかと声をかけられた。いや...違うな。出演してほしいと誘われたんじゃなくて、そのコンサートをやると話してくれた時に、俺が「じゃあ、妻のパティと俺の分のチケットをもらえないか?」と頼んで、「いいよ」って。俺たちは単にコンサートを観にいくつもりで、ニューヨークに行ったんだ。するとエリック・クラプトンが病気になって、コンサートの前日にジョージが「代わりに出てくれないか、考えてくれるかな?」と。俺は、「もちろんだよ!当り前じゃないか!って。その日一日、リハーサルに励んだよ。コンサートの数時間前になって、エリックが元気になったんだけど、ジョージはそれでも俺にプレイさせてくれた。そんないきさつでバングラデシュ難民救済コンサートに出演できたのさ」
 ジェシ・デイヴィスは、バングラデシュ・コンサートの時にジョージからプレゼントされたメダルを自慢気に見せてくれた。裏には、ジェシ・デイヴィスの名前が刻んであった。
 バングラデシュ・コンサートの前年、1970年にリリースされたデビュー・アルバム『ジェシ・デイヴィスの世界』(2)は、ソロ・デビューを後押ししたエリック・クラプトンほか、ジョン・サイモン、リオン・ラッセル、ベン・シドラン、グラム・パーソンズらが参加。オリジナルのほか、ヴァン・モリソンの「クレイジー・ラヴ」、友人ロジャー・ティリソンの「ロックンロール・ジプシーズ」など、いずれも味わい深いレイジーな歌声とスワンピーなスライド・プレイが聴ける傑作。続くセカンド・アルバム『ウルル』(3)は、1972年リリース。ドクター・ジョン、リオン・ラッセル、ダック・ダン、ジム・ケルトナーほか、こちらも渋いメンツが脇を固めている。本人の説明にもあったジョージ・ハリソンの「スー・ミー・スー・ユー・ブルース」ほか、ザ・バンドの「ストロベリー・ワイン」、リオン・ラッセルの「アルカトラス」、マール・ハガードの「ホワイト・ライン・フィーヴァー」など、選曲もスワンピーなアレンジもゴキゲンだ。1979年に会った際、日本に連れていきたいバック・ミュージシャンを尋ねたら、「ベースは、ボブ・グローヴ、ドラムは、ジム・ケルトナーかチャック・ブラックウェル、キーボードは、スタン・セレスト。あとは、俺がギター。それだけの小編成バンドだね」と言っていた彼だが、その夢は叶わず、1988年6月22日、ドラッグが原因で他界。享年43歳だった。
 ジェシ・デイヴィスは、プロデューサーとしても優れた仕事をしており、ジーン・クラークの『ホワイト・ライト』、ジム・プルーティの『アウト・ザ・ウィンドウ』、ロジャー・ティリソンの『ロジャー・ティリソンズ・アルバム』(4)は、その代表作。『ロジャー・ティリソンズ・アルバム』は、ビリー・リッチ、ジム・ケルトナー、ラリー・ネクテル、サンディ・コニコフ、スタン・セレスト、ドン・プレストンらヴェテラン勢が参加、ほぼスタジオ一発録りで制作されたという。オリジナル曲の素晴らしさ、ザ・バンドやディラン、ウディ・ガスリー、フォー・トップスなどのカヴァー選曲のセンス、ジェシ・デイヴィスの多彩でダイナミックなプロダクション、バンク・バンドの力強い演奏、上手くはないが、強烈な存在感を放つティリソンの歌声。ザ・バンドのサウンドに大きな影響を受けたスワンプ・ロックの名盤である。2003年には、実に32年振りとなるセカンド・アルバム『マンブル・ジャンブル』(5)がリリースされた。チャーリー・パットンやサン・ハウスで知られるトラディショナル・フォーク・ブルース「ポニーズ・ブルース」を除く10曲がティリソンのオリジナルで占められたが、南部のカントリー・ブルース、フォーク、カントリーに根ざした作風は相変わらず。肩の力が程よい感じに抜け、多少穏やかになった歌声は、重ねた年輪のせいだろう。ジェシ・デイヴィスの強烈なヴァージョンでお馴染みの「ロックンロール・ジプシーズ」の新録ヴァージョンは、日本のファンのために新録したもの。新作リリース後の6月、ロジャー・ティリソン初の日本ツアーを企画した際には、ラリーパパ&カーネギーママにアンコールの6曲のバック演奏を担当してもらい、長年のティリソン・ファンの喝采を浴びた。ちょうど、ジェシ・デイヴィスの命日にあたる原宿FAB公演のステージには、デイヴィスの写真パネルを飾っていたのだが、気がついたひとはいただろうか?


【長門芳郎プロフィール】

70年代初期から後期にかけ、シュガー・ベイブ(山下達郎/大貫妙子ほか)、ティン・パン・アレー(細野晴臣/鈴木茂/林立夫)のマネージャーとして、コンサート/レコード制作に携わる。70年代末〜80年代末には、南青山の輸入レコード店パイド・パイパー・ハウスの店長/オーナーを続けながら、ピチカート・ファイヴのマネージメント、海外アーティストのコンサートをプロデュース。ヴァン・ダイク・パークス、ドクター・ジョン、リチャード・トンプソン、フィービ・スノウ、ダン・ヒックス、ジョン・サイモン、ローラ・ニーロ、ピーター・ゴールウェイ、NRBQほか多数の初来日ツアーを手がける。80年代末にヴィレッジ・グリーン・レーベル(ポニーキャニオン)をスタートさせ、海外アーティストのレコード制作に携わる。98年からは、ドリームズヴィル・レーベルのレーベル・プロデューサーとして、数多くのアルバム制作を行なっている。以上の仕事の傍ら、70年代から現在まで、数多くの洋楽アルバム/CDのリイシュー企画監修、アート・ディレクションを行い、その総数は700タイトル以上。現在音楽番組「ようこそ夢街名曲堂へ!」にレギュラー出演中。





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